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古本とコンピュータ 3.0

古本屋と情報処理とそれに関連する話題

EC-CUBEの管理者について

EC-CUBE3は、複数の管理者を登録することができる。

  • システム管理者: スーパーユーザー
  • 店舗オーナー: 一般ユーザー

なお、商品を購入する顧客はここには含まれない。

「日本の古本屋」も、複数の管理者が登録されていると思われる。ただし、店舗オーナーである各書店は、互いに他のオーナーの商品データや店舗情報にはアクセスできないようになっている。すなわち以下のようになっているだろう。

  • システム管理者: スーパーユーザー
  • 店舗オーナーA店-1: 管理者(A店の管理者)
  • 店舗オーナーA店-2: 一般または在庫(A店が登録した商品だけアクセス可能)
  • 店舗オーナーB店-1: 管理者(A店の管理者)(B店の管理者)
  • 店舗オーナーB店-2: 一般または在庫(B店が登録した商品だけアクセス可能)

「日本の古本屋」は管理者について大幅なカスタマイズが行われていると思われる。なお、EC-CUBEのユーザーコミュニティのスレッド「複数のオーナー管理者で運営時、各オーナーが閲覧編集出来るデータを制御」には、以下のような記述がある。

質問

システム管理者と、複数のオーナー管理者によって運営されるECショップで、 各オーナーが閲覧・編集出来るデータを制御するということは可能なのでしょうか? 例えばオーナーAでログインした場合、オーナーBが登録した商品へのデータアクセスは出来ないといった具合です。

返事

カスタマイズすれば可能です。(既にプラグインあったらすみません)

HerokuでEC-CUBEを試す

「日本の古本屋」がEC-CUBEを利用しているかもしれないことが分かったので、実際にEC-CUBEをインストールしてみる。

「herokuボタンで簡単にec-cubeの全機能を試してみる - Qiita」 を参考にした。なお、「日本の古本屋」のEC-CUBEはversion2.xであると思われるが、ここではバージョン3をインストールする。

手順

  • Herokuのアカウントを取得する。Heroku
  • GitHubEC-CUBEリポジトリの下のほう、 README.mdにある「Deploy to Heroku」ボタンをクリックするとインストールされる。
  • HerokuのPersonal appsから該当するアプリ(Herokuではdynoという)をクリック。
  • アプリの画面の右上「Open app」をクリックすると「くらしを楽しむライフスタイルグッズ EC-CUBE SHOP」が表示される。
  • URLに/admin/を付け加えてアクセスすると管理画面が表示される。
  • ログインIDに admin パスワードに password を入力してログインする。
  • 管理画面右上の「管理者様」をクリックして、「パスワード変更」をクリックする。
  • パスワードを変更する(安全のため)

以上、一番お手軽なインストール方法である。以降しばらくこれを使ってみることにする。

注意

Herokuの無料アカウントでECの実サイトを運用するのは無理があるので、実際に運用する場合は有料アカウントに変更するか、PHPの使用できるレンタルサーバを他に探すこと。これはあくまでお試しである。

「日本の古本屋」をハックする その1

2015年1月にリニューアルした「日本の古本屋」はどんなサイトなのか? もちろん、非合法的にハッキングをするわけではない。公表されている情報からどのようなことがわかるのか調べてみるのである。

現在の「日本の古本屋」はどこにあるのか

tracerouteしてみた。

>tracert www.kosho.or.jp

koshoelb-external-781398421.ap-northeast-1.elb.amazonaws.com [52.198.176.206] へのルートをトレースしています

AWS(アマゾン ウェブ サービス)を利用しているらしいことが分かった。

ECパッケージ

憶測であるが、EC-CUBEをカスタマイズして利用しているのではないか。理由は、ウェブサイトの各ページにeccube.jsへのリンクがあるからである。

誰が作ったのか?

憶測であるが、日立の情報システム関連会社ではないか。理由は、マニュアルに「日立グループ」とあるからである。なお、古書店用マニュアルはウェブで表示可能であるが、直リンクをしていいのか分からないので、ググって探してみるとよい。

Googleの分析ツールの導入について

はてなブログの場合の導入方法。これを勉強して実サイトに役立ててみたい。

Google アナリティクスの導入については以下のサイトを参照した。

-初心者の為のGoogle Analytics(ユニバーサルアナリティクス)の使い方講座

-はてなブログに Google Analytics を設置する - めかりる

ウェブマスターツールの導入方法については、以下のサイトを参照した。

-超初心者用 ウェブマスターツールの導入方法(図解入り)

蛇足

もちろん、このような分析をすることにどのような意味があるのかという問題はある。必要ないかもしれない。みんながするから自分もやるのだという程度のものかもしれない。アクセスを解析しないで商売をするという人もいる。

あれから12年半

最後の日記を書いてから12年半の歳月が流れた。この間、知り合いのほとんどの古書店は倒産してしまった。古本屋は今や絶滅危惧種である。90年代に業界を撹乱したブックオフも書籍販売で苦戦を強いられている。BtoCの商売としての古本屋はもうダメなのである。本そのものの販売は儲からない。したがって、古本屋とカフェの結合、古本とライフスタイル提示業の結合は盛んである。ロハス系の特定の層にはアピールできることだろう。

古書店をめぐるコンピュータの環境もすっかり変わった。Amazonマーケットプレイスの一人勝ちが明らかになった。古書組合加盟古書店であれば、Amazonで売れない書籍は「日本の古本屋」で販売するかもしれない。「日本の古本屋」は数年前のリニューアル後にとうとう書誌情報とそれを参照しながら作成される商品情報のデータベースのテーブルが分離された。(なお「日本の古本屋」のシステム「ZIZAI」はオープンソースらしい。どこかにソースがあるのだろうか。)

個人で作成する在庫管理システムは、12年前はPHPを使って自作するか、osCommerceを利用するくらいしか簡単な選択肢がなかったが、現在ではPHPフレームワークRuby on Railsが簡単に利用できるようになった。

以前は莫大な投資額が必要であったPOSシステムは、iPadとハンディスキャナを利用する簡易システムが開発されることで、安価に導入できるようになった。アマゾンや国会図書館の書誌情報データベースはAPIが公開されている。こっそりと利用している書店もあることだろう。安価な単品管理がすぐ手の届くところにある。

なお、先に述べたように、そもそもBtoCの商売としての古本屋はもうダメなのである。時代はCtoCであったり、シェアであったりする。「モノのコンピュータ」が発達して全ての物理的な書籍がネットワークに繋がるようになれば、CtoCの書籍のやりとりはより簡単になり、仲介業者は不要になることだろう。だが、まだそれまでには数年の時間があることだろう。この間まだ何かやれることはあるだろうか。そんなことをふと考えた。

大崎滋生,1993,『音楽演奏の社会史 よみがえる過去の音楽』,東京書籍.

大崎氏は,ハイドン研究を専門とする音楽学者.本書は,いわゆる「古楽」(ルネサンスバロック音楽)を含む「過去の音楽」を「復興」することにどのような社会的意義があるのかについて,復興の歴史,復興の哲学,復興の実践という3つの側面から考察している.なお,同書は大学での講義録を元にしてまとめられている.
興味深かったのは,「オーセンティシティ」と複製技術に関係した聴取(と演奏)の「一回性」の問題に関する言及である.
筆者によれば,古楽復興の初期段階においては,「作曲者の構想した音楽を響きの上で再現させる」(同書,204ページ)ことを人々は追及したが,試行錯誤の結果,「過去にあったそのものという意味でのオーセンティックな演奏などありえない」(同書,206ページ)という考え方が次第に人々の間で共有されるようになってきた.たとえば,楽譜に書かれていないことは多く,書き記されていない要素は「多義性を残してしまう」(同書,204ページ).だからこそ作曲者の意図を議論する余地が生まれるが,決して作曲者本来の意図にはたどりつくことは出来ない.
もちろん,「オリジナル楽器を用いて初めて,なぜそのようにかかれているかがわかる」(同書,158ページ)こともある.たとえば,筆者は,J. S. Bachのカンタータ第126番(BWV 126)のアーノンクールの演奏を例に挙げて,バッハの時代に使われていた無弁トランペットを用いることで狂った音程(音響のリアリティ)が生まれ,「バッハの狙いはそれによってはじめて明らかなものとなる」(同書,178ページ)ことを指摘している.
筆者は,過去の音楽を演奏することだけではなく,過去の音楽を今日聴くことの意味,そしてそれが演奏に与える影響についても考察している.18世紀においては,その音楽を聴くのは(基本的に?)1回限りであったのに対して,今日では「繰り返し聴くことができる」(同書,195ページ).筆者は,ある音楽を「繰り返し聴き,楽譜を見て,さらに楽曲分析をすることで,次第に理解の深まりを実感し」,自身の頭の中にある「音楽作品のネットワーク」のなかにその作品を位置づけるのである(同書,195ページ).「録音されて反復聴取が現在のように大規模に可能になったということは,演奏のこうした(標準的なレパートリーでも新しい演奏が常に模索されること)側面を強化した」(同書,197ページ カッコ内は感想執筆者が補足).演奏者は他の演奏者の演奏を「それこそ飽きるほど」(同書,197ページ)反復聴取することで演奏家同士の「対話」が生まれるといえるとともに,反復聴取をしないと「その演奏の意味を把握できない」(同書同ページ).それに対して,バッハの上記のカンタータは18世紀の聴衆にとっては一回的な体験であったため,無弁トランペットの狂った音を反復して聴取することはできないのであり,「当時の聴衆にとって,あの音楽はもっと別のように聞こえていたのではないか」(同書,200ページ)と筆者は指摘するのである.
●感想
筆者の指摘するとおり,われわれは過去のオーセンティシティを決してそのときにあったのと同じように再構成することは出来ない.ややこしいのは,再構成できない過去とは,どこまでをさすのか,という問題である.18世紀,19世紀に音楽を作曲したり演奏した人が現在も生き残っているということはありえない.では,20世紀の作曲家が作った過去の作品,しかもその作曲家が生きている場合は,演奏に際しては,作曲者の意向を踏まえるべきなのであろうか.そして作曲者の意向を尊重すればそれはオーセンティックといえるのだろうか(先に感想を書いたジョン・ケージの作品における作曲者と演奏家の関係を思い起こしてほしい).
文学であれば,書かれたテクストはすでに制作者の手から離れて一人歩きしてしまう,という考え方が今日では一般的である.しかし,西洋音楽における楽譜は,筆者の述べるように,書かれていない部分(多義性)が多分に残っている.しかも音楽は通常譜面で完結するわけではなく,パフォーマンスを行うことで初めて音楽となる(文学であれば,たとえば「詩のボクシング」のようなパフォーマンスを伴う行為は,どちらかというと同時代的な音楽を演奏する行為に似ているといえそうだ).しかもクラシック音楽の場合は,作曲者と演奏家は同一人物ではないケースが多い.作曲者・楽譜・演奏者をめぐるオーセンティシティの追求は,同時代の作品であれば意味のあることなのだろうか.
また,このような問いは,ポピュラー音楽におけるオーセンティシティ(Sarah Thornton?)と決定的に違う点があるのかどうなのか.
はたまた,古本という過去のモノを収集して再構成する,という古本屋の行為は,これらのオーセンティシティの追求とどこが同じでどこが違うのだろうか.やっぱり,なかなか見えてこないことである.

上野 正章,1994,「現代音楽への演奏論的アプローチ ──ケージの『偶然性の音楽』を中心に──」,『音楽学』,第40巻2号,日本音楽学会.

●要約
ジョン・ケージの音楽は,一般的な音楽の概念を打ち破る革新性(組織化された音ではなく素材(音?)それ自体に重点を置くこと)と,作曲家・楽譜・演奏家という制度の保守性の両方を持つ.従来のケージ研究は作曲家・楽譜に焦点を当ててきたが,「偶然性の音楽は演奏に負う部分が非常に大きい」.そこで,ケージの演奏について書き記された物を題材にして,演奏家の「演奏行為を行なう身体の運動」の側面からケージの演奏に対する思想を再構成する,というのがこの論文の目的である.
そこで,(1)偶然性の音楽と呼びうる2つの相(演奏者は楽譜に捕らわれず意のままに音を発すること・偶然性を用いて決定された音(楽譜?)を演奏者が忠実に音に変換すること),(2)後者に存在する演奏の不可能性の処理法,(3)(特に,演奏が難しいケースを想定すると)偶然性の音楽にリハーサルが必要か,反復練習をするならば偶然性と呼べるか,という3つの点に着目する.
ケージは,(1)演奏者が恣意性を排して正確に楽譜を音に変換すること,(2)演奏者が恣意性を排しつつも制約された身体の範囲内で努力して達成しようとすること,(3)「楽譜にかかれたことを正確に行為する」ためには演奏者がリハーサルをすることが必要であると考えていた.
「偶然性によって音の要素が決定された楽譜」を音に変換することは,演奏の「慣れ」の拒否であり,演奏者は「生きて動いている身体を自覚する」.とはいうものの,慣れを一切排してリハーサルを行なわなければ「稚拙な演奏によって,演奏自体が成立しない」可能性があり,両方の立場の間でケージは揺らいでいたといえる.
●感想
この論文の議論を少し一般化すると,ケージの音楽の偶然性は,準拠する規則(楽譜)が変化することであるといえる.そして,演奏者は変化する規則を実践しなければならない.そこでは,(新しい)規則を実践できる程度に反復を行なうこと,規則の実践が自動化(慣習化)しないように反復を避けることが求められる.すなわち,規則を使っていることに自覚的でありながら規則を使う状態,を継続しなければならないのである.
この議論を踏まえて面白そうだと思ったのは,以下の2点.
○規則の使い方の個人差は存在しないのか(演奏者個人の行なう解釈の可能性の程度はどれくらいなのだろうか?全くないのだろうか?仮に規則(その演奏用の楽譜)が全く同一のときには,誰が演奏しても同じ演奏になる(べき)なのだろうか?).たとえば,ワールドカップのフットボールの試合は,同じルールに則って行なわれるが,チーム(国)による振る舞いの差があるではないか.
○規則が変わることが常であったとしたら,そのこと自体が自動化してしまう,ということはないのだろうか.たとえば,ケージの音楽が普及したら,「偶然性」そのものが全く偶然ではなくなってしまうにもかかわらず,規則の変化自体は常に発生していることになる.「慣れ」が発生しない音楽の演奏行為,というものが通常の音楽になる,というようなものだ.与えられた規則を自覚的に利用するのであるから,即興演奏をするのとはちょっと違いそうだ.