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上野 正章,1994,「現代音楽への演奏論的アプローチ ──ケージの『偶然性の音楽』を中心に──」,『音楽学』,第40巻2号,日本音楽学会.

●要約
ジョン・ケージの音楽は,一般的な音楽の概念を打ち破る革新性(組織化された音ではなく素材(音?)それ自体に重点を置くこと)と,作曲家・楽譜・演奏家という制度の保守性の両方を持つ.従来のケージ研究は作曲家・楽譜に焦点を当ててきたが,「偶然性の音楽は演奏に負う部分が非常に大きい」.そこで,ケージの演奏について書き記された物を題材にして,演奏家の「演奏行為を行なう身体の運動」の側面からケージの演奏に対する思想を再構成する,というのがこの論文の目的である.
そこで,(1)偶然性の音楽と呼びうる2つの相(演奏者は楽譜に捕らわれず意のままに音を発すること・偶然性を用いて決定された音(楽譜?)を演奏者が忠実に音に変換すること),(2)後者に存在する演奏の不可能性の処理法,(3)(特に,演奏が難しいケースを想定すると)偶然性の音楽にリハーサルが必要か,反復練習をするならば偶然性と呼べるか,という3つの点に着目する.
ケージは,(1)演奏者が恣意性を排して正確に楽譜を音に変換すること,(2)演奏者が恣意性を排しつつも制約された身体の範囲内で努力して達成しようとすること,(3)「楽譜にかかれたことを正確に行為する」ためには演奏者がリハーサルをすることが必要であると考えていた.
「偶然性によって音の要素が決定された楽譜」を音に変換することは,演奏の「慣れ」の拒否であり,演奏者は「生きて動いている身体を自覚する」.とはいうものの,慣れを一切排してリハーサルを行なわなければ「稚拙な演奏によって,演奏自体が成立しない」可能性があり,両方の立場の間でケージは揺らいでいたといえる.
●感想
この論文の議論を少し一般化すると,ケージの音楽の偶然性は,準拠する規則(楽譜)が変化することであるといえる.そして,演奏者は変化する規則を実践しなければならない.そこでは,(新しい)規則を実践できる程度に反復を行なうこと,規則の実践が自動化(慣習化)しないように反復を避けることが求められる.すなわち,規則を使っていることに自覚的でありながら規則を使う状態,を継続しなければならないのである.
この議論を踏まえて面白そうだと思ったのは,以下の2点.
○規則の使い方の個人差は存在しないのか(演奏者個人の行なう解釈の可能性の程度はどれくらいなのだろうか?全くないのだろうか?仮に規則(その演奏用の楽譜)が全く同一のときには,誰が演奏しても同じ演奏になる(べき)なのだろうか?).たとえば,ワールドカップのフットボールの試合は,同じルールに則って行なわれるが,チーム(国)による振る舞いの差があるではないか.
○規則が変わることが常であったとしたら,そのこと自体が自動化してしまう,ということはないのだろうか.たとえば,ケージの音楽が普及したら,「偶然性」そのものが全く偶然ではなくなってしまうにもかかわらず,規則の変化自体は常に発生していることになる.「慣れ」が発生しない音楽の演奏行為,というものが通常の音楽になる,というようなものだ.与えられた規則を自覚的に利用するのであるから,即興演奏をするのとはちょっと違いそうだ.