古本とコンピュータ 3.0

古本屋と情報処理とそれに関連する話題

大崎滋生,1993,『音楽演奏の社会史 よみがえる過去の音楽』,東京書籍.

大崎氏は,ハイドン研究を専門とする音楽学者.本書は,いわゆる「古楽」(ルネサンスバロック音楽)を含む「過去の音楽」を「復興」することにどのような社会的意義があるのかについて,復興の歴史,復興の哲学,復興の実践という3つの側面から考察している.なお,同書は大学での講義録を元にしてまとめられている.
興味深かったのは,「オーセンティシティ」と複製技術に関係した聴取(と演奏)の「一回性」の問題に関する言及である.
筆者によれば,古楽復興の初期段階においては,「作曲者の構想した音楽を響きの上で再現させる」(同書,204ページ)ことを人々は追及したが,試行錯誤の結果,「過去にあったそのものという意味でのオーセンティックな演奏などありえない」(同書,206ページ)という考え方が次第に人々の間で共有されるようになってきた.たとえば,楽譜に書かれていないことは多く,書き記されていない要素は「多義性を残してしまう」(同書,204ページ).だからこそ作曲者の意図を議論する余地が生まれるが,決して作曲者本来の意図にはたどりつくことは出来ない.
もちろん,「オリジナル楽器を用いて初めて,なぜそのようにかかれているかがわかる」(同書,158ページ)こともある.たとえば,筆者は,J. S. Bachのカンタータ第126番(BWV 126)のアーノンクールの演奏を例に挙げて,バッハの時代に使われていた無弁トランペットを用いることで狂った音程(音響のリアリティ)が生まれ,「バッハの狙いはそれによってはじめて明らかなものとなる」(同書,178ページ)ことを指摘している.
筆者は,過去の音楽を演奏することだけではなく,過去の音楽を今日聴くことの意味,そしてそれが演奏に与える影響についても考察している.18世紀においては,その音楽を聴くのは(基本的に?)1回限りであったのに対して,今日では「繰り返し聴くことができる」(同書,195ページ).筆者は,ある音楽を「繰り返し聴き,楽譜を見て,さらに楽曲分析をすることで,次第に理解の深まりを実感し」,自身の頭の中にある「音楽作品のネットワーク」のなかにその作品を位置づけるのである(同書,195ページ).「録音されて反復聴取が現在のように大規模に可能になったということは,演奏のこうした(標準的なレパートリーでも新しい演奏が常に模索されること)側面を強化した」(同書,197ページ カッコ内は感想執筆者が補足).演奏者は他の演奏者の演奏を「それこそ飽きるほど」(同書,197ページ)反復聴取することで演奏家同士の「対話」が生まれるといえるとともに,反復聴取をしないと「その演奏の意味を把握できない」(同書同ページ).それに対して,バッハの上記のカンタータは18世紀の聴衆にとっては一回的な体験であったため,無弁トランペットの狂った音を反復して聴取することはできないのであり,「当時の聴衆にとって,あの音楽はもっと別のように聞こえていたのではないか」(同書,200ページ)と筆者は指摘するのである.
●感想
筆者の指摘するとおり,われわれは過去のオーセンティシティを決してそのときにあったのと同じように再構成することは出来ない.ややこしいのは,再構成できない過去とは,どこまでをさすのか,という問題である.18世紀,19世紀に音楽を作曲したり演奏した人が現在も生き残っているということはありえない.では,20世紀の作曲家が作った過去の作品,しかもその作曲家が生きている場合は,演奏に際しては,作曲者の意向を踏まえるべきなのであろうか.そして作曲者の意向を尊重すればそれはオーセンティックといえるのだろうか(先に感想を書いたジョン・ケージの作品における作曲者と演奏家の関係を思い起こしてほしい).
文学であれば,書かれたテクストはすでに制作者の手から離れて一人歩きしてしまう,という考え方が今日では一般的である.しかし,西洋音楽における楽譜は,筆者の述べるように,書かれていない部分(多義性)が多分に残っている.しかも音楽は通常譜面で完結するわけではなく,パフォーマンスを行うことで初めて音楽となる(文学であれば,たとえば「詩のボクシング」のようなパフォーマンスを伴う行為は,どちらかというと同時代的な音楽を演奏する行為に似ているといえそうだ).しかもクラシック音楽の場合は,作曲者と演奏家は同一人物ではないケースが多い.作曲者・楽譜・演奏者をめぐるオーセンティシティの追求は,同時代の作品であれば意味のあることなのだろうか.
また,このような問いは,ポピュラー音楽におけるオーセンティシティ(Sarah Thornton?)と決定的に違う点があるのかどうなのか.
はたまた,古本という過去のモノを収集して再構成する,という古本屋の行為は,これらのオーセンティシティの追求とどこが同じでどこが違うのだろうか.やっぱり,なかなか見えてこないことである.